藤岡信勝研究
「新しい歴史教科書をつくる会」前会長、元拓殖大学非常勤講師の藤岡信勝先生の業績や関連団体について多角的に研究
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日本教育再生機構の機関誌「教育再生」8月号に掲載されている伊藤隆先生と竹内洋先生(関西大教授、京大名誉教授)の対談で、竹内先生が興味深い発言をしている。

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八木 左翼教育学者が学校現場を煽っていったのですね。
竹内 そして、3Mに代表される進歩的教育学者第1世代の弟子たちはさらに過激になっていきました。今は保守派を自称するある教育学者は昭和40年代前半に地方の国立大学の大学院生でしたが、民青の活動家で、非共産党系とみなした教員に団交を求めて大学を追放したと聞きます。第1世代の背後にこうした「少国民的進歩的教育学者」が控え、厚みを増していったのです。



大学紛争当時、日本 共産党=日本民主青年同盟とつるんでいた大学当局があった。北海道大学、東北 大学、名古屋大学は「日共御三家」と呼ばれていた。全 共闘を擁護するつもりはないが、こういうスターリニスト支配を打破するため学生が立ち上がったのは正しい面もある。
 
非日共系の学者で、そのころ北海道大学教育学部助教授だった市川昭午氏(国立大学財務・経営センター名誉教授)はこう回顧している(『未 来形の大学』玉川大学出版部、平成13年)。

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私が所属していた学部も、教授会、職員組合、大学院生協議会、学生自治会からなる四者協議会のシステムを採用した。教授会には全教員に加えて他の3組織の代表が参加しており、そこで学生の成績評価や教員の人事が審議される仕組みであり、学生自治会や職員組合が承認しないかぎり、教員は昇任できないことになっていた。
学生の成績評価もきわめて政治的で、主流派(引用者注・民青)の学生はA、ノンポリの学生はB、反主流(引用者注・反日共)の学生はCと相場が決まっていた。私の講座の助手は、「これでは愚者の楽園だ」と正論を吐いたことから集中攻撃を受けて「自主退職」させられるに至った。こうした運営方式に愛想を尽かし、少なくない教授会メンバーが転職していった。



市川氏も「研究どころではなくなった」として、昭和45年10月に国立教育研究所に転出した。
 
「昭和40年代前半に地方の国立大学の大学院生」「民青の活動家」で「今は保守派を自称するある教育学者」とは誰なのか、竹内先生にメールで聞いてみようと思う。

また、これをお読みの方で、当時のことをご存じの方がいたらご教授願いたい。
  
※拙ブログへの投稿、情報提供はgroupe1984@livedoor.com へ。
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