藤岡信勝研究
「新しい歴史教科書をつくる会」前会長、元拓殖大学非常勤講師の藤岡信勝先生の業績や関連団体について多角的に研究
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某ブログと同様、拙ブログも中村粲先生(6月23日逝去)の業績を回顧しようと思う。田中正明先生から南京事件について随分教わったので、その分野には興味がある。平成11年の中村粲―藤岡信勝「南京」論争を振り返りたい。
中村_藤岡「南京」論争

中村粲先生が代表を務める昭和史研究所は平成10年11月2日、九段会館で「南京を考える」シンポジウムを開いた。中村先生が締めくくりの発言を行ったところ、パネリストの藤岡信勝氏(当時は東大教授、現在は拓殖大学客員教授)が発言を求め、壇上では自説だけを述べ相互批判はしないという事前了解を破って中村先生を攻撃した。このことを中村先生は『正論』平成11年1月号の「NHKウオッチング」で触れた。

すると藤岡信勝氏は3月号で「中村粲氏の『南京事件1万人虐殺説』を批判する」と題した論文(というほどのものでもないが)を掲載した。まず、「NHKウオッチング」なのに南京シンポを取り上げたことが気に入らないと言って「中村氏は雑誌にご自分の連載コラムを持っていることをよいことに、連載テーマと関係のない個人攻撃にその場を悪用した。これは社会的公器の私物化である」。話し言葉に対して批判したのがけしからんから対抗すると言って「中村氏がルールを破ったことの必然的帰結であり、その酬いは中村氏自身にはね返っていく」などと左翼チックに罵倒している。

そして中村氏を「南京事件1万人虐殺説」と勝手に決め付け、「シンポ参加者の多くがおそらく予想しなかったはずの、驚くべき結論である」「時代おくれの議論に固執している。これは、誠に不真面目な態度であるといわざるをえない」と勝手に驚き、「後知恵的解釈をほどこして開き直る」「とんでもない個人攻撃と中傷を書く」「この奇弁は、誠に驚くべきものである」などと非難した。

この「論文」の中で藤岡信勝氏が話し言葉に対して批判するのは不当だと書いている部分を全文引用する。これは非常に資料性がある。

 第二に、中村氏の文章は、口頭でかわされたやりとりを無媒介に文字化するという、およそ文筆家としてやってはいけないことをやっているという意味でも不当である。本来、他者の言説に対する批判は、その相手方が責任をもって書いた文章を対象にして行われなければならない。それは何故かというと、話しことばの秩序と書きことばの秩序は次元を異にするからである。
 話しことばによるコミュニケーションの利点は、他者の発言に刺激されて、即興のアイディアが浮かんだり、思わぬ発見をしたりするところにある。そういう思いつきを、かなり自由に口にすることが許容されているところに、書きことばによる議論のやりとりでは得にくい生産性がある。たいていの雑誌に、個々の論者が書いた文章と並んで、対談や座談会の記録が掲載されているのは、こうした話しことばによるコミュニケーションの長所を生かそうとしているのである。
 しかし、他方で、話しことばには書きことばにない欠点がある。話しことばには、勘ちがいが起こる。言いまちがいもある。言いすぎもある。論旨不明の発言も起こりうる。言いもらしや説明不十分という事態もある。この側画においては、話しことばは不完全なコミュニケーションでもあるのだ。だから、座談会にせよシンポジウムにせよ、活字にする際には発言者が発言記録に手を入れることを保障するのが編集者の義務である。発言者による発言記録への手入れは、話しことばの秩序を書きことばの秩序に組み替えるための不可欠の手続きなのである。このことは、誰かがどこかで発言したことを、本人の了解なしに一方的に引用することは許されないということを意味する。学会発表の場合でも、口頭で発表された新しい学説を他の研究者が引用する時は、その発表内容が論文として活字になるのを待つのである。このような好意的引用でも話しことばの無媒介な文字化には自制が求められるのだから、まして否定的な引用においては、それは絶対にやってはならないことなのである。


藤岡信勝氏は、批判は文章に対して行うべきで話し言葉を取り上げてはいけないと書いている。私的な会話もシンポジウムや会議、記者会見などでの発言も不正確だから批判の対象にしてはならないというのだ。しかし、周知の通り、藤岡氏は他人の口頭での発言を随分批判してきた。「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛でもそういうことがあった。藤岡氏に発言を批判された人は『正論』平成11年3月号を突き付けて、「批判するなら、責任をもって書いた文章に対してしてくれ」と反論したほうがい。

藤岡信勝氏の3月号の文章に対して中村粲先生は5月号の「『南京事件』の論議は常識に還れ―藤岡信勝氏の批判に答える」という論文で完膚なきまでに論破しているので最後に紹介したい。全文を掲載したいが、行数規制のため一部を引用する。

(前略)
 私が「虐殺」の定義として「残酷な殺し方」を挙げたことが最大の問題だと藤岡氏は云ふ。さうであらうか。我々日本人は「虐殺」といふ時、何をイメージするかを考へてみられよ。それは何と云つても「殺し方(遺体の扱ひ方も含む)の酷たらしさ」であらう。それは殺害理由の合法不法を間はぬとも云へるのではあるまいか。これは全日本人が共有する経験的事実であり、虚心にこの事実に立つて「虐殺」の定義も考へられねばならない。
 「殺し方」が残酷かどうかは主観的判断であり、人さまざまであると藤岡氏は云ふ。私は藤岡氏のこの所論は理屈のための理屈に過ぎぬと考へる。正常な人間なら何が「虐殺」で何が単なる「殺害」であるか、判断に迷ふことはない。
 「虐殺」か否か。それは不必要な苦痛や傷や恐怖を与へる殺し方であるかどうかによつて判断できるであらう。この見地に立てば、もはや抵抗する意思も手段も失つた捕虜を処断する方法として銃剣刺殺や機関銃による銃殺は、小銃による銃殺に比べるとやはり残酷な殺害方法と云へよう。何人かの体験者に聞いたところでは、銃剣刺殺は仲々難しく、一回の突刺で即死させるのは容易でないらしい。いきほひ何度も突くか、あるいは息のある儘穴や川に落とす場合もあるであらう。機関銃による処断では身に数弾を浴びても死ぬことの出来ない者も相当にゐる筈だ。無抵抗の者に対する斯様な殺し方を「正常」な殺し方と考へるのは頗る困難で、これを「残虐」と感じないのは余程冷酷な人間であらう。それは藤岡氏が云ふやうに「中村氏の主観的判断」などではなく、銃剣刺殺に直接間接関はつたり目撃した人々が語つてをり、その二、三の実例を、紹介しよう。傍点筆者。
(中略)
 以上数例を挙げたが、抵抗を止めた者を銃剣刺殺することが将兵にとつてさへ異常に残酷な行為と考へられてゐたことが判るであらう。小銃による銃殺は正常な処断方法であるが、銃剣や機関銃による処断はやはり殺害方法としては虐殺の部類に入るのではないか。これを「中村氏の主観的判断」とうそぶいて平然たる藤岡氏の人道感覚は相当に異常である。
 我軍の甚だしい銃弾不足(飯沼守・上海派遣軍参謀長の日記にも詳しい記述がある)などの事情からして銃剣刺殺は窮余の策であつたのかも知れないとは思ふ。それにしても「南京虐殺」を論ずるからには、捕虜の銃剣刺殺をどう見るかについて、自分の良心に照して疚しくないだけの結論は用意しておく必要があらうと思ふ。
(中略) 

捏造された「一万人虐殺説」

 「南京シンボ」に戻る。「日本軍が敗残兵や便衣兵を殺害した事件は相当にあると云つていい」と述べた(前出)あと、その数について次のやうに説明した。要点を整理してみる。
①第七聯隊の戦闘詳報付表には敗残兵の銃刺殺数六、六七〇名とある。しかしこれは、同所に記されてゐる南京入城後の射耗弾数の少なさ(小銃弾五千発、機銃弾二千発)からすると大多数は銃剣刺殺したことになる。激減した聯隊の残存兵力を考へると一人の兵が何人も刺殺した計算になるが、これは人間の神経の耐へられることではない。そこで私は六、六七〇名といふ処断数は誇大な数と考へる。確かに大量の処断はあつただらうが、それが不当であつたかどうかは事情が判明しない限り何とも云へない
②第六十六聯隊は十二月十二、十三日に投降兵一、六五七名を処断してゐるが、これもどんな事情かは不明である。
③逆に投降兵を釈放した例もある。第四十五聯隊は十二月十四日、五、五〇〇名の捕虜を下関で捉へたが恭順なので全員釈放した。
④第四十一聯隊は江心州で二、三五〇名の投降兵を得たが、従順だつたので全員釈放した。
⑤第六十六聯隊は捕へた大量の捕虜を釈放しようとしたところ叛乱が発生、約千名の捕虜を射殺、護衛の我が将兵の間にも死者が出た。これも捕虜の処断であるが不法ではない
⑥日本軍によつてこのやうに処断された支那兵の数については(偕行社『南京戦史』に)一覧表があるが(『南京戦史』では①②の他に第三十三聯隊による三、〇九六名及び第二十聯隊による三二八名の処断数を合算して約一万二千名としてゐる)、かなり誇大だと思ふ。 「それでも数千名はあつただらうと思ふ。合法か不法かは別にして――。ともかく兵の処断は一万人以下だらうと思ふ」(カッコ内は発言通り)
⑦市民の不法殺害数についてはL・スマイズ南京大学教授(社会学)の統計調査がある。それによれば日本軍による南京占領後三ケ月間に城内で不法殺害された市民は二、四〇〇名である。加害者は日本兵か中国兵かには触れてゐない。また調査対象の家族が身内の被害者について「不法に殺された」と申し立てたとしてもそれは不正確であり、必ずしも信用できない。不法殺害された市民の数はもつと少ないと思ふスマイズ調査の数が全面的に正しいといふのではないが、調査方法が客観的で信用できる点でこの数字は注目すべきである。
 以上が「南京シンポ」での私の発言であるが、この何処を押しても「一万人虐殺(あるいは不法殺害)」など出てこない筈だ。
 ところが藤岡氏は私の右の所論を次の如く無理に組合はせて「一万人虐殺説」を捏造してしまつた。――「中村氏による南京事件の虐殺数は『一万以下』であり、これに更に民間人の虐殺』が加わると『約一万』ということになるはずである。結局のところ中村説のエキスは『南京事件一万人虐殺説』なのである。これはシンポ参加者の多くが予想しなかったはずの驚くべき結論である」と(二八六頁)――。
 傍点部分(注:拙ブログでは下線)を注意して読んで頂けば判るやうに、不確実な事柄に関しては私は細心の注意を払ひ、軽率な断定を避け、慎重に発言したのであるが、藤岡氏はその部分を一切ネグつてしまひ、故意に私の発言内容を盃曲して「一方人虐殺」論者のレッテルを貼り、それどころか論文のタイトルにまで「中村粲氏の南京一万人虐殺説」なる文句を盛込んで、私を「虐殺派」として世間に印象づけたのである。
 戦闘詳報、聯隊史、日記、諸資料の渉猟のみならず、全国各地に体験者を訪ねてはその生の証言を録音テープやビデオ・カメラに収録する仕事を私が始めてから八年になる。書斎や図書館での研究だけでは到底把握できぬ南京事件の実相に少しでも近づければと考へたからだ。南京事件については不明、不詳、不確定のことが多い。被殺者数も諸家によつて出されてはゐるが、何れも確証はなく推論、臆測の域を出な
い。そんな雲を摑むやうな調査研究で大切なのは常理常識に立つた判断力だ。歴史に書き残すべきは、畢竟常理常識でなければならぬ、といふのが私の歴史論であり、持論である。
 それ故にこそ、南京事件に関しても軽々に虐殺数を主張せず、論ずるには必要な留保を加へて慎重に言葉を選ぶなど、抑制ある態度と立場を守つてきたつもりであつた。また三十万人以上の大虐殺派の批判はしても、虐殺ゼロから一、二万人の〝小虐殺〟派に対しては、一度として批判も論評も加へたことはなく、各論者の見解を尊重し、小異を問題にしたこともない。 「南京シンポ」に、互ひに見解を少しづつ異にする東中野、(故)板倉由明(病気のため出席せず)の両氏をバネリストとして招いたのもこの立場からだつた。 「なぜ板倉氏を呼んだのか」と藤岡氏は私に詰問した(十月二十日、苫小牧で)。私は「板倉氏は秦郁彦氏の四万人虐殺説を批判してゐる人で大虐殺否定派である。シンポの壇上で名指しの批判や内輪争ひをしなければ多少見解の違ひがあつてもよいと考へ、この点で両氏の諒承が得られたので出て貰ふことにしたのだ。予めパネリストが見解を調整したりしては却て不自然だ。多少の差異は残しても、参会者が色々なバネリストの説を聞いて自分なりに『南京の真実』について考へを深めることが出来ればそれが成果である」と答へた筈である。
 であればこそ、シンポの終りに突然藤岡氏が主催者代表である私の発言に公然と噛みついて来たことに意外な感がしたのである。それこそシンポの趣旨を忘れ、氏の所謂「敵に塩を送る」発言ではなかつたのか。これについて藤岡氏は「(中村氏は)《予期せぬ内輪からの反論》などと驚いてみせ、私の発言に《反論はせず、丸く収めた》などと後知恵的解釈をほどこして開き直る」(二八九頁)と感情的な非難の言葉を並べてゐる。私は壇土での内輪喧嘩といふ醜態を見せたくなかつたし、閉会予定時刻も過ぎてゐたので、出掛かつた言葉を飲み下したまでで、「後知恵で開き直る」とは哀れむべき下衆の勘ぐりだ。

南京事件の光と影

 では南京事件とは何か。シンボで私はかう結論づけた。「大量の処断が行はれたことは遺憾ながら事実だが、それと同時併行的に日本軍の南京占領以後、急速に平和な市民生活が回復して行つたことも事実である。それは資料として配布した当時の朝日新聞が特集した「平和甦る南京」といふ報道写真や東京日日新聞の佐藤振壽写真記者の撮つた南京の写真が証明する。この光と影の両方の事実を我々は共に見なければならない。それは何を意味するかと云へば、日本軍の処断の対象になつてゐるのは兵隊であつて無辜の住民ではない、といふことを佳民自身が知つてゐたといふことだ。そこで、あつたことはあつたとして光も影もしつかり見つめる時に南京事件の真相が見えてくると考へる」と――。
 これについて藤岡氏は「虐殺はなかったという説に反論するために事実や論理ではなく、『光と影』という比揄を中村氏は持ち出した。こういうもっともらしい一般論で虐殺があったことにされては、たまったものではない」と激怒する(二八八頁)。反論しよう。
①私の「光と影」説が、住民に対する大虐殺を否定するための主張であることは常識ある読者には明白だらう。それを「虐殺はなかつたという説に反論するために」私が考へ出した説であるとするのは、何とかして私を「虐殺派」の仲間に入れてしまひたいとの魂胆が藤岡氏にあるからで、「南京虐殺まぼろし説」の専売特許を御希望なのかも知れない。
②「光と影」説は「事実や論理でなく比揄」であると氏は言ふが、私がシンボで紹介した幾多の処断(や釈放)の実例や、「平和甦る南京」等の写真は氏にとつて「事実」ではないのであらうか。
③これに関連して申せば、氏の十八番である〝プロパガンダ写真〟の研究は、アイリス・チャンの本が出鱈目であることの一論拠にはなつても「大虐殺不存在」の証明には全くならないのだ。それよりも私が紹介した南京に於ける和やかな日支交歓風景の写真の方が「市民虐殺不存在」の証拠としては決定的である。
④藤岡氏の言動で不可解な点がある。
 シンポに先立つ十月二十、二十一日、北海道・苫小牧で私と二人の講演・討論会があり、南京に関して私は同じ「光と影」説を述べたのに対し、氏は反論するどころか「南京事件の全体像はいま中村先生の仰有つたこと、そして私の申上げたことで御理解頂けると思ひます」(録音テープより)とまで述べて居られるのである。それが十一月二日のシンポで俄かに「光と影」ではなく「光と光」であると豹変して、壇上で私を攻撃したのは何故か。これでは私が驚くのも当り前ではないか。
 昨年六月十二日、私がアイリス・チャン批判の外人記者会見を催した時、藤岡氏は「四万人虐殺説」の秦郁彦氏を出席させるよう要望したが、私はお断りした。〝四万人説〟でチャンに反撃できると考へてゐるらしい氏が、何故〝一万人説〟の私を「これではアイリス・チャンと戦いようがない」(二八六頁)と言つて非難排斥するのか。首尾一貫せぬ言動だ。
 総じて藤岡氏は、自分と異なる見解に対して何故もつと寛容になれないのか。大虐殺派に対してならともかく、同じ大虐殺否定陣営内の小異(中村説)に対して、何故千人もの聴衆の前で斬りつけるやうなことをするのか。しかも事前の諒解に反して――。 「会場から強い共感の拍手がわき起こつた」と氏は御満悦だが(二八六頁)、威勢のいい発言の際に起りがちの、無自覚で空虚な拍手と私は聞いた。とまれ、かくも異説に不寛容では「自由主義史観研究会」の看板に申し訳が立たないのではないか。
(後略)

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